
Veritas No.8 (1999.7.14)
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<夏休み特集>「学生にすすめる一冊・私が読みたい本」
<研究室から>
<図書館のかたすみで>
<Veritas rerum = ことのありよう> ---浜下昌宏
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<夏休み特集>「学生にすすめる一冊・私が読みたい本」 
遠藤知二(人間科学科助教授 E-mail:endo@mail.kobe-c.ac.jp)
・学生にすすめる一冊
加藤真「日本の渚」(岩波新書 1999)--- 080/IW1F/V.613
夏休みには海に遊びに行く人も多いだろう。人だらけで人しか目に入らないかもしれないが、本来海辺は豊饒な生き物たちの住み場所だったはず。この本を読んでから行けば、多少は違った見方もできるのではないだろうか。海に囲まれたこの国の海岸が、今どうなってしまっているか、その現実を見つめるいいチャンスでもある。万葉集なんかの好きな人にもおすすめ。
・私が読みたい本
Dawkins, R. Unweaving the Rainbow, Allen Lane, The Penguin Press
あのドーキンスもずいぶんなところにまで来てしまった。表題は、ニュートンの光学が虹のもつ詩的想像力を奪ってしまったとするキーツの言葉からとったもの。ドーキンスの仕事は、むろんそうではないと論証することだが、私としては、そんな自明なことより、彼の想像力を楽しみたい。冒頭の1句も刺激的。でも、読む暇あるかな。
浜下昌宏(総合文化学科教授・図書館長 E-mail:m-hama@mail.kobe-c.ac.jp)
・学生にすすめる一冊
柳田国男「青年と学問」(岩波文庫、ほか)--- 080/IW1aa/V.138/2、390.8/YA1B/V.4
1928(昭和3年)初版の講演集。時代がちがうから読みにくい部分もあるかも知れないが、大学時代に基本的な考え方を身につけるのに参考となる1冊。
・私が読みたい本
三輪龍作「僕と炎と唇と」(求龍堂,1985)
作者は萩在住の陶芸家。新聞などのエッセイで、そのエロス的感受性の豊かで、なお硬質の文章に魅力を感じていた。たまたま三宮の古書店(後藤書店)で見つけたので、この夏に読んでみるつもり。
原田園子(英文学科教授 E-mail:s-harada@mail.kobe-c.ac.jp)
・学生にすすめる一冊
高橋たか子「高橋たか子自選小説集」全四巻(講談社 1994)--- 発注中
高橋たか子さんは、若き日より、心/魂の奥底へ視線を向けつつ、その奥底にあるものを見ようと歩んでいる作家です。
・私が読みたい本
高橋たか子「神の海 マルグリット・マリ伝記」(講談社 1998)--- 発注中
上記の高橋たか子さんの最新作。出版(1998年10月)されてすぐに手に入れ読み始めたのですが、(読み流す内容ではなく)ゆっくり時間がとれなくてまだ、読み終えていないので。
Pinker, Steven. How the Mind Works, New York: Norton, 1997. --- 131.3/PI2
ベストセラ−になった、 Pinker の前作『The Language Instinct』--クスッと笑ってしまう例がいっぱいの楽しく読める言語学の書物--につづく600頁の本。
泥谷征人(英文学科教授)
・学生にすすめる一冊
Winchester, Simon. The Professor and the Madman, New York: Harper Collins, 1998. --- 発注中
OED の編纂に関わった二人の人物の知られざる関係を明らかにした感動的な書。日本語訳も出ているが、読みやすい英語で書かれているので、ぜひ原文で読んでほしい。
平井雅子(英文学科教授)
・学生にすすめる一冊
宮崎芳三「太平洋戦争と英文学者」(研究社 1999)--- 発注中
戦争中の英文学者は英語教師と共に、ある程度の活動と発言の自由を許された。それは「敵」のことを知り、国際社会に遅れをとらないため英語が「必要」だったからである。「役立つ」という看板を掲げて生き残ることを迫られる状況にあって、英文学、ひいては学問、知の社会における本質的意味を問おうとする人々があった。状況を現在に置きかえて、ただ社会の目先の目的に「役立つ」英語教育を求める声ばかりに振り回されかねない「英文学」また「英文学科」の将来を考える時、彼らの意欲と挑戦、挫折と不明の軌跡を見据えることは、我々に歴史の中に生きる「思想」の大切さを教えてくれるだろう。思想とは、まさに個人がいかに生きるかの問題なのだ。
荒木正純他編「D.H.ロレンスと新理論」(国書刊行会 1999)--- 928/LA2P
共同執筆者の中に私が加わっているので、推薦するのはどうかとも思ったが、敢えてそうする理由は、学生、ことに大学院生の中に、新しい文学研究の方法、理論を知りたいという要請があり、さりとて一人の思想家、文学者の理論を読みこなすのも至難であり、あるいはただの消化不良の理論の受け売りに終わってしまうというジレンマに気付くからである。この本は、理論という意味では、初心者にも解りやすく明快にその要点を述べることが心がけられ、次にその理論を実際にテキスト(ここではロレンスの個々の作品)に適用するとどのような分析がなされるかという具体例への実践を通して、実感としてその理論の働きが理解できるように配慮されている。そこから様々なヒントを得ることができるような、作品読解と理論をつなぐ手引き書として、学部生から英文学者まで、広く勧めたい。フーコー、デリダ、ラカン、バフチン、ドゥルーズ、サイード....
・私が読みたい本
Monk, Ray. Ludwig Wittgenstein, London: J.Cape, 1990.
ヴィトゲンシュタインは20世紀を代表する哲学者であるだけなく、ケンブリッジにおけるバートランド・ラッセルとの出会い(師事)、『トラクタス』執筆(伝統的哲学の問題に答えを出したと自覚)後、第1次世界大戦の現実に直面し、個人的苦悩、仕事上の悩みの末、長い空白期間を経て哲学に復帰。自らの思想を破壊・再考する試みが、現代哲学のディスコースを決定づけたという。自らは天才としての自覚を持ちながら、社会、友人との出会い、時代、歴史的事件との遭遇によって過激に自己を見つめ、自己否定、脱皮を試み続けた精神の軌跡を、彼の人生と思想を一体のものとして描く、この好評の伝記の中に読み、感じたいと思っている。それは、第1次大戦前後の様々な詩人、小説家、芸術家、思想家の問題でもあっただろう。
石黒晶(音楽学科助教授 E-mail:ishiguro@mail.kobe-c.ac.jp)
・学生にすすめる一冊
菊池寛「袈裟の良人」(菊池寛全集第1巻所収 発売:文藝春秋社 1993)--- 850.8/KI8A/V.1
「袈裟と盛遠」は元来歌舞伎・浄瑠璃の題材であった。大正になって芥川龍之介が、これを小説仕立てにして近代人らしい解釈を施した。そのすぐ後、こんどは菊池寛がこの短編戯曲を発表した。それぞれが”袈裟”をめぐる愛についての、異なる解釈である。短いのですぐ読める。読んだら”渡”の人生について、じっくり考えてほしい。
”袈裟”については、他に岡潔が「神々の花園」(講談社現代新書 昭44 絶版?)で、その生と死の意味を説いている。手に入るならこれもぜひ読んでほしい。私がもっとも共感する”袈裟”の解釈は、じつはこれである。
・私が読みたい本
「Vision DSP Manual」(Opcode Systems,Inc., 1998)
「Vision」は、DTM(Desk Top Music)の主要分野である、シーケンサー(シンセサイザーの演奏プログラム)ソフトの一つである。ヴァージョンアップした「Vision DSP」を、一度ゆっくり調べたい。
専門分野である作曲の現場では、私は主に楽譜作成ソフトのみを使っている。しかし作曲の下書き段階でシーケンスソフトを用いるのは、劇伴(映画や芝居の音楽)の世界ではいまや普通であろう。それぞれ単独で使っていた二つのソフトを連携する方法が、私の分野ではプラスになるだろうか?
真栄平房昭(総合文化学科教授)
・学生にすすめる一冊
杉原達「越境する民」(新幹社 1998)--- 発注中
「国境」を越えて人びとが移動し、インターネットを通して世界の情報にふれる機会も多い現代。それは便利な反面、「国際化」や「情報化」という風潮に安易にふりまわされる危険性も孕んでいる。このやっかいな時代に生きる私たちが、21世紀の未来に向けて思考を深め、世界に心を開いていくにはどうすればよいのだろうか。ひとつの方法として、自らが立つ位置を確かめながら「前進」するためには、後ろを振り返ることが必要である。人間は過去から学ぶことによって進歩する。そこで、夏休みに学生諸君にぜひ一読をすすめたい歴史書を紹介することにしたい。
その本との出会いは、1999年春に「海域アジア史研究会」の仲間と一緒に、韓国の済州島・木浦・釜山などを訪れる機会があり、その旅から帰国後まもなくのことであった。私は偶然に立ち寄った神戸三宮の本屋で、『越境する民―近代大阪の朝鮮人史研究―』(新幹社、1998年)とめぐり会った。著者は大阪大学文学部(日本学講座教授)の杉原達氏。膨大な史料とオーラル・ヒストリーの手法を駆使し、広くアジア的な視点から近代日本の知られざる歴史に光をあてたその本は、ずっしりと重い読後感を、心に残してくれた。
・私が読みたい本
アンソニー・リード「大航海時代の東南アジア」(法政大学出版局 1997)--- 080/HO1/V.570
「国境」を越えて動くヒトやモノのダイナミズムを世界史的な視点から描いた名著。著者は英国のケンブリッジ大学に学び、現在オーストラリア国立大学太平洋学部の東南アジア史の教授。
松田高志(総合文化学科教授)
・学生にすすめる一冊
コリン・ウィルソン「わが青春わが読書」(学研 1997)--- 発注中
今、読みかけている本ですが、読書が人間に対してどれだけ大きな働きをするかが手にとるように分かります。(実は学生時代、この著者のものを読んですっかり「毒気」に当てられたことがあります。)
・私が読みたい本
芹沢光治良「人間の運命」全七巻(新潮社 1991)--- 853.3/SE2B/V.1-7
芹沢の作品は、学生時代より愛読していますが、この大作は未だ読んでいません。目下人間の生涯というものについていろいろ考えており、是非読みたいと思っています。
松澤員子(人間科学科教授・学長)
・学生にすすめる一冊
高史明「生きることの意味 ある少年のおいたち」(ちくま文庫 1993)--- J/KO2(ちくま少年図書館 1975)
・私が読みたい本
ポール・ケネディ「21世紀の難問に備えて」上・下(草思社 1999)--- 発注中
中村健(音楽学科教授)
・学生にすすめる一冊
森雅裕「モーツァルトは子守唄を歌わない」(ワニの本 1997)--- 発注中
10数年前の江戸川乱歩賞受賞作。ウィーンで起きた殺人事件を若い娘がベートーヴェン、チェルニー、シューベルトと解決していく。荒唐無稽のようでいて音楽史上の裏付けもしっかりしており、作曲家たちの会話などもありそうな発言で思わずニヤニヤする。チェルニーの伝記を読んで再読すればなおよし。作者は神戸生まれ。
・私の読みたい本
ドナ・ウィリアムズ「自閉症だったわたしへ」(新潮社 1993)--- 発注中
ずっと前からベッド脇に積んでいてなかなか手が出ない本。いつになったら読むのだろうか?
岡本佳子(人間科学学科助教授)
・学生にすすめる一冊
中村璋八他訳著「作る心食べる心」(第一出版 1980)--- 書庫/642/TU3
中国留学を無事終えて帰国された道元禅師(永平寺の開祖)が、天童山景徳寺を始めとする中国禅林寺院での修行中に体得された典座(修行道場における修行僧達の食事を司る役名)の職務の重要さや受食者の心構えを説いたものである。
・私が読みたい本
ポール・フィールドハウス「食と栄養の文化人類学」(中央法規出版 1991)--- 394/FI1
人はなぜそれを食べるのか。
小石秀夫他編「栄養生態学 世界の食と栄養」(恒和出版 1988)--- 613.1/KO18/C.2(書庫にもあり)
自然の生態の多様さと人間の逞しさを教えてくれるはず。
高橋雅人(総合文化学科専任講師 E-mail:m-takah@mail.kobe-c.ac.jp)
・学生にすすめる一冊
今まで読んだ中でもっともおもしろいと思った本をもう一度読んでみたらいかがでしょうか。もしその本があなたにとって一生つきあうことのできるものだと判明すれば、それは幸せな発見ですし、またもしもう一度読んでみておもしろくないと思ったら、大いに喜びましょう。それはあなたが成長した証なのですから。
・私が読みたい本
Eriugena. Periphyseon
を校訂者Edouard Jeauneauの研究書とともに読み進めていきたいと思っています。
しかし、これよりも先に読むべき本がたまっているので、夏休みの間にできるかどうか。この二冊まで手が回れば、私の夏休みは充実したものとなるのですが。
高島進子(総合文化学科教授)
・学生にすすめる一冊
野田正彰「戦争と罪責」(岩波書店 1998)--- 発注中
日本の夏は、熱い。熱いついでにこの本を。「わたし、戦争なんて関係ない----」「でも、そうはいっても、あなただって、日本人じゃないの?」と(アジアの人たちからは)いわれるでしょう。
・私が読みたい本
持田季未子「希望の倫理学」(平凡社選書 1998)--- 発注中
Oxfordで日本文化の暴力性に思いを致してみたい、と思います。
上西妙子(総合文化学科教授)
・学生にすすめる一冊
アンドレ・コント=スポンヴィル「ささやかながら、徳について」(紀伊國屋書店 1999)--- 発注中
マイケル・A・スクリーチ「モンテーニュとメランコリー」(みすず書房 1996)--- 194.9/MO3A
17世紀、ラ・ロシュフコーは、『箴言集』(岩波文庫)において言っている。「太陽も死もじっと見つめることはできない。」また、「頭がよくて馬鹿だということは時どきあるが、分別があって馬鹿だということは絶えてない」とも。余裕のある時間の過ごし方のなかでこそ、<解ること>と<解らないこと>の間をゆれている「人間の条件」を考えたい。この2冊は、頭に残る知識も、そう簡単には口にできなくさせる効能を持つようだ。黙っていることを選ぶ分別は、人間にとって見つめ難いものを見つめ続けるという、希望の行為でもある。
和気節子(英文学科専任講師)
・学生にすすめる一冊
大江健三郎「宙返り」上・下(講談社 1999)--- 発注中
5年前のノーベル賞受賞後、初めての長編小説。すべてが不確実な現代社会で、自分を、他者を、あるいは、そのどちらでもない何かを、とにかく信じて生きようとするとはどういうことか、考えさせられます。
・私が読みたい本
Nicolson, Marjorie. The Breaking of the Circle, Evanston: Northwestern Univ. Press, 1950.
17世紀の科学の影響で、中世以来、神の完全性を象徴する円環を用いて説明されてきた世界観が崩れた。そのことへの動揺の表われを、イギリス17世紀のジョン・ダンを中心とする形而上学派詩人達やミルトン等の作品に探った研究書。大江氏の作品(「宙返り」)と共通する、時代の転換期に生きる人々の真摯な「問いかけの姿」に触れたいと思っています。
山田由美子(英文学科教授)
・学生にすすめる一冊
シェイクスピア「ロミオとジュリエット」、「十二夜」--- 新館2F
公開中の映画「恋におちたシェイクスピア」の理解を深めるために。(宝塚でも上演予定)
シェイクスピア「リア王」--- 新館2F
蜷川幸雄・真田広之が英国のロイヤル・シェイクスピア劇団に招かれ、10月・12月の公演に参加することに関心のある向きに。
・私が読みたい本
アリストテレス「詩学」と生物学関係の著書
学会準備のため。
<研究室から>
多様性と戯れ、稀少性と闘う(遠藤知二:人間科学科助教授 E-mail:endo@mail.kobe-c.ac.jp)
よく知られているように、生物種の多様性の高い熱帯雨林では、それぞれの種の生息密度は低い。ダーウィンと並んで自然選択説を提出したことで有名なA・R・ウォーレスは長年にわたって標本採集業者として熱帯で過ごしたが、彼の『マレー諸島』は、読みようによっては、多様性との戯れの記録であり、その裏返しとしての稀少性との闘いの記録でもある(注1)。「平均して毎日24種前後の新種を採集した。・・・私はボルネオで合計約2000種類の甲虫を手に入れたが、そのうち約100種を除いたすべての種をこの場所、つまりは1〜2キロ四方ほどの土地で採集できたのだ。」かと思えば、「ところがどういうわけか、その後の6年間、このサラワクでの採集に匹敵するような成果を一度たりともあげることはできなかった。」「・・・この旅行では1頭のチョウも捕まえることができなかった。」
熱帯生態学の目的は、一言でいえば、このような多様性をもたらしているのは何か、そしてそれがどのように維持されているのかを解き明かすことにある。昨年の11月から12月にかけてと、今年の5月から6月にかけて、2回にわたるボルネオの低地熱帯雨林における研究の最終目標は、まさに「生物多様性の維持機構の解明」だったのだが、この問題は生態学の前に立ちはだかっている最難問の一つであり、おいそれと答えが出るようなしろものではない(注2)。ここでは、研究の経過報告をかねて、熱帯での研究がどのようなものであるかを私的に寸描してみよう。
熱帯雨林へ出かけていって、何を研究するのか。正直なところ、一人の生態学研究者がほとんど手ぶらで熱帯雨林の中に入って何ができるのか、というのは疑問だった。今回の調査チームのメンバーは、私以外すべて分類学の研究者であり、実質的にはインベントリーの色彩が濃い。インベントリーとは、ある地域に生息する生物種の目録を作成していく作業過程であり、生物多様性研究のもっとも基礎的な仕事である。時間と労力のかかる地味な仕事だが、熱帯雨林のインベントリーが緊急の課題であることは言うまでもないだろう。しかし、私自身はその手伝いしかできない。さて、何をしたものか。これは、いたって気楽な状態ともいえるが、科学者の社会的責任などということを考えだすと、実にゆゆしきことではある。大きな声では言えない。
あらかじめ、同僚のアリ研究者と一応考えておいた研究プランは、熱帯で著しく多様化しているアリ擬態グモとアリの関係を調べるというものだった。アリグモというアリそっくりのクモは温帯でも珍しいものではないが、熱帯ではアリも多様ならアリグモの仲間もずいぶん多様である。おまけに、その擬態の意味は、必ずしも明らかになっていない(注3)。擬態のモデルであるアリは蟻酸をもっていたり、刺したりするので捕食されにくいことは確かなようだが、おいしいクモがアリに擬態して食われにくくなっているのか(ベイツ型擬態)、それとも捕食者であるクモがアリに擬態してアリを襲っているのか(攻撃的擬態)、そのへんも定かでない。現在はベイツ型擬態の方に軍配が上がりかけているものの、その場合でもアリ擬態を進化させた捕食者が何なのかは諸説がある。擬態そのものの適応的意義の問題に深入りすると、それはそれでたいへんだが、なぜ熱帯では多様な擬態者が共存できるのかという問題に取り組むことは興味深そうだ。ここまでは、しかし、頭の中で考えたことであり、現地でそれに取り組めるかどうかは別問題だった。
実際に、熱帯雨林の中に入ると、たしかにアリ擬態のクモはいた。薄暗い林の中につけられたトレイルに沿って歩きながら、目の届く範囲の植物上を、とりあえずアリをサーチイメージにして、なめるように探すと、正真正銘のアリに混じって、たまにアリ擬態グモが見つかった。アリ擬態のクモにも、擬態の精度にグレードがある。どこかしらアリっぽい程度のグレードIから、アリの研究者ですらだまされるグレードVまで…。しかし、それが見つかる頻度は、極度に低い。植物体上で脊椎動物の接近を待っているヒルの発見頻度よりも、はるかに低い。この研究プランは、そこが熱帯雨林であることをいやがうえにも思いしらせる個体群密度の低さの前に、まずはあえなく挫折した。(2回目の調査では、もう少し気合を入れて探したので、少しはデータがとれた。)
ことほどさように、机上で描いた研究プランは、とくにフィールドワークでは通用しない。まったく逆に、思いがけない幸運もある。社会性のクモを発見したのも、偶然の成り行きからだった。ほとんどのクモは、単独で生活しており、生活史の初期段階を除いて同種個体が集団で生活することは、ふつうはない。社会性のクモと呼ばれるクモは、例外的に集団で生活しており、さらにその一部の種類は協同して餌を食べたり、子育てをしたりする。世界中で20種ほどのクモがそうした協同的な集団生活を送っていることが知られており、いずれも熱帯域にしか生息していない。なぜ、これらのクモが「社会性」を進化させたのかは、そしてその舞台が熱帯なのかは、これもまたよく理解されていない。そういえば、私は日本では社会性クモに関するちょっとした権威で、その総説さえ書いているのだが(注4)、実は自分の目で見たこともなかったのだ。おまけに、東南アジアの熱帯からは、協同的な社会性クモは報告されていなかったので、すっかり忘れていた。そのような私が、路傍の植物の葉をひっくり返したときに、奇妙なクモの集団を発見したのは、たまたま車がその近くの坂道でぬかるみにはまって動けなくなるという事故のおかげだった。1%くらいの必然もあったと主張したい気もなくはないが、99%はやはり偶然だろう。しかし、2度目の調査行でさらにこのクモを詳しく調べようと、勢い込んだところ、「この旅行では1頭のクモも捕まえることができなかった」。つくづく熱帯での研究は難しい。(ついでにいえば、このときの調査では、まったく別のタイプの集団性のクモを見つけた。どうやら、名実ともに社会性クモの権威になってしまうかもしれない。)
いたって太平楽で、アドホックな要素の強い調査旅行のようだ。それはそうなのだが、このような調査の性質上しかたのない面もある。それでも、熱帯の生物たちが織りなしている錯綜した関係の一部を解きほぐすことには、何がしか貢献できると私は考えているし、それが熱帯雨林のおかれている現状を少しでも改善することに役立つと信じたい。最後に、調査地である熱帯雨林に行き着くまでの道すがらの光景に触れておこう。主な調査地となったタビン野生生物保護区は、マレーシア・サバ州の州都コタ・キナバルから車で約7時間、ラハダツという街からさらに車で1時間半ほどの場所にある。車に乗っている時間のうち、もっとも長い時間にわたって車窓から見える光景は、アブラヤシのプランテーションである。保護区はアブラヤシの海の中に浮かぶ頼りない島のようなものだ。はじめてそこを訪れたときは、限りなくつづくアブラヤシ園の先に本当に熱帯雨林があるのか不安になるほどだったし、多様さの対極にあるすさまじいモノカルチャーに度肝を抜かれた(注5)。
2度目に訪れたタビンはすこぶる暑かった。熱帯だからあたりまえのようなものだが、どうしてこんなに暑いのか。現地で世話になったインドネシア出身の若いアリ研究者によれば、周りのヤシ園から熱風が吹き込むせいもあるらしい。それならば、アブラヤシから採れるヤシ油を大量に消費しているわれわれもまた、熱帯雨林を取り囲み、熱風を送り込んでいることになる。そう思いながら、またビノキュラーの下で熱帯のサンプルでものぞくことにしよう。
注1:A・R・ウォレス『マレー諸島(上・下)』(ちくま学芸文庫)一読の価値あり。
<図書館のかたすみで> 
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<VERITAS RERUM = ことのありよう>(浜下昌宏:総合文化学科教授 E-mail:m-hama@mail.kobe-c.ac.jp)
前号の本欄のテーマ、古典の存在理由、それを読み学ぶ必要をどう論証し得るか、という問題に関して続きを少々。江戸川乱歩は『わが夢と真実』(東京創元社、昭和32)の中で次のように書いている。「少年期から青年期にかけて、わたしの物の考え方に最も強い影響を与えた本は、通俗天文学書と、ダーウィニズムと、姉崎さん訳のショペンハウエルであったように思っている。いずれもペシミスチックな受けとり方においてであった。つまりわたしは生れつきと、育ちにおいて、すでにして弱者であったのを、この三つの本が弁護し、裏書きしてくれたようなものである。...」(「わたしの古典」)−−この一文は、改めて「古典」の定義を示唆している。 つまり、“弱者”たる我々を励まし、心を強くしてくれる書物、それが「古典」のひとつの役割であり、その力のない書物は、いかに普及し世評に高い場合でも、「古典」の名に値しない、と。なにも乱歩先生だけが心弱い人間ではない。そのことは、人間であることの共通の基礎条件のようにも思う、名誉や財産、地位やうぬぼれ、人づきあいとゲーム(遊び)で己を粉飾しないかぎりは。だから我々は“弱さ”から目を逸らし逃れるために次々と気分転換をはかるのだが、ときに読書もその役にたつ。しかし、慰めたり気を逸らすだけではなく、励ますことも書物の役割なのだ。たしかに、その前提として我々自身による、自分の至らなさ、罪深さ、“弱さ”が自覚されていなくてはならない。そこで、憧れが生まれ、「憧れを知る人だけが私の悲しみを知る」というミニョンの想い(ゲーテ『ウィルヘルム・マイスターの修業時代』)に重なり、待つことと出会いがあるのであろう。恋人のみならず「わたしの古典」との出会いが。「古典」もまた作者に憧れがあってこそ書かれたのだから。
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<編集後記>
オンライン上での初めての Veritasの発行から一ヶ月がすぎました。紫陽花が雨に濡れる梅雨もそろそろ終わり、夏休みが間近になった7月14日、早くもVol.8(オンライン上での発行は2号目)の発行となりました。今回は「学生にすすめる一冊、私が読みたい本」と題して、夏休み中の読書に関する記事を先生方からいただいて特集としました。 海に山にと楽しい計画で一杯でしょうが、是非この機会に何か一冊挑戦してみてはいかがですか?
今回は色白だった女の子が、こんがりと日焼けするといった可愛いカットに、夏休みへの楽しい期待が込められています。学生の皆さま元気にお過ごしください。お忙しい中原稿をお寄せ下さいました先生方、有り難うございました。心身共にリフレッシュ出来る夏休みをお過ごし下さい。
Veritas編集員一同は「試験も何にもなーい」ゲゲゲの鬼太郎のようなお休みをひたすら楽しみにしております。
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