
Veritas No.7 (1999.6.14)
*** ご挨拶 ***
図書館長 浜下昌宏
図書館ではニューズレター<VERITAS>の内容を一新して、今までの通り利用案内や新所蔵図書の案内に加えて、本や情報をめぐる意見・議論・紹介の場を設けます。つまり、情報の提供サービスだけでなく、情報発信の試みを始めます。むろん、この場は本学に所属するすべての教職員、学生に開かれています。同窓生や学外の専門家からの意見も聞いてみたい。投稿は図書館(E-mail:
kclmsg@mail.kobe-c.ac.jp)へどしどしどうぞ。紙面の内容は多様を旨としますが、毎号小特集を組む予定です。本号は「社会・政治と切り結ぶ学問」と題して、巷を賑わせているさまざまな問題や事件のうち、とくに「脳死」「コソボ紛争」「ダイオキシン」を取り上げます。(これから予定している小特集は「マス・メディアとのつきあい方」「学問の恐さ・凄さ」「大衆文化の快楽」などです。投稿をお待ちします。)
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<特集>「社会・政治と切り結ぶ学問」
<岡田山を知ろう>
<研究室から>
<図書館のかたすみで>
<私と読書>
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<特集>「社会・政治と切り結ぶ学問」 
[1]脳死と臓器移植をめぐって(高橋雅人:総合文化学科専任講師 E-mail:m-takah@mail.kobe-c.ac.jp)
−序−
1999年2月28日、高知赤十字病院に入院していた高知県在住の中年女性が、1997年10月に施行された「臓器の移植に関する法律(以下、「臓器移植法」)」に基づき、脳死と判定された。本人及び家族の意思が確認され、直ちに、心臓は大阪大、肝臓は信州大、腎臓は東北大と国立長崎中央病院、角膜は高知医大で移植手術が実施された。
この一連の出来事は詳しく報道され、社会的にも大きな関心を集めた。事実、この移植手術の後、脳死判定による臓器提供をしてもよいと考える人々が増えたことが世論調査(4月3日の毎日新聞)によって明らかにされている。
とはいえ、脳死とはそもそも何か、植物状態とはどのように違うのか、あるいは脳死を巡る様々な問題にはどのようなものがあるのか、こういったことについてはまだまだ知られていない。以下、脳死に関する基本的な事柄と、問題点とを述べてみたい。
−脳死の定義−
臓器移植法によれば、脳死した者とは「脳幹を含む全脳の機能が不可逆的に停止するに至ったと判定された」者のことである。つまり脳死とは「脳幹を含む全脳の機能の不可逆的な停止」である。このように脳の全体的機能の喪失を脳死とする立場を「全脳死」と言い、これに対して生命現象を司る脳幹の機能喪失を脳死とする立場を「脳幹死」、さらに人間という種に特徴的な言語活動などを司る大脳の機能喪失を脳死とする立場を「大脳死」と呼ぶ。日本やアメリカは全脳死の立場に立ち、イギリスは脳幹死の立場に立っている。植物状態の人は大脳の機能が喪失している(ただしまれに機能を回復することもあり、不可逆とは言い切れない)が、脳幹はいまだ働いている点で脳死とは異なる。
−脳死判定−
脳死の判定は伝統的な死の判定基準であるいわゆる死の三徴候(呼吸の停止、瞳孔散大、心拍の停止)に比べてはるかに微妙であり、かつ手続きが複雑である。その基準は次のようなものである。
ある人について二人以上の医師が次の六つの基準を満たすと判定したとき、その人は脳死と判定される。
1 深い昏睡
2 瞳孔が固定し、瞳孔経が左右とも4ミリメートル以上
3 脳幹反射の消失
4 脳波が平坦
5 自発呼吸の消失
6 以上の五つの状態が確認され、さらに六時間以上経過した後に、再び確認されること
「竹内基準」と呼ばれるこの基準の第五番目の判定のための検査、すなわち「無呼吸テスト」は、第一番目から第四番目の基準が満たされた後に為されなければならないと「臓器の移植に関する法律施行規則」第二条第三項に規定されている。これは無呼吸テストが患者に酸素を吸入した上で人工呼吸器を外し自発呼吸の有無を調べるものであって、テストそのものが患者に対して大きな負担となるからである。にもかかわらず、高知赤十字病院での脳死判定の際、無呼吸テストが脳波検査より前に行われていることが明らかになっている。しかし厚生省の朝浦幸男・臓器移植対策室長は「医師の裁量の範囲内で問題はない」という見解を示した(3月16日の毎日新聞)。
−竹内基準の問題点−
脳死判定基準は脳の「機能死」の立場に立っている。脳は一種の入力・出力装置と考えられる。例えば、前方から進んで来る自動車を見て(情報入力)、ひかれないように道の端へ寄るという身体行動(運動出力)の両方を脳が行っているのだ。入力・出力という脳の二つの機能のうち、入力機能が働いているかどうかは確かめようがない(人の脳を覗くことはできない)。そこで出力を調べ、もしその機能が失われているならば、その脳全体の機能が失われていると考えるのが機能死である。脳死判定基準のうち脳幹反応の消失という基準は脳の出力という機能が失われていると判断する根拠なのである。
しかし脳の出力機能が失われていることがすなわち全脳の機能喪失なのか。ディスプレイが真っ黒なコンピュータを考えてみよう。コンピュータそのものが壊れている場合もあるが、キーボードからの入力が正常に働いているのに画面には映らないという場合もあろう。後者であるならばコンピュータ本体には問題はないことになる。脳の場合も同じである。確かにある刺激に対して反応が返ってこないならば、脳の出力系に問題があることは明らかである。しかしその刺激を受容するという入力系が未だ働いている余地は残る。とするならば、反応がないということのみによっては全脳の機能喪失とは判定できないはずである。つまり「竹内基準」による脳死判定には誤謬の可能性が全くないとは原理的には言い切れないのである。
このような機能死の考え方に対して、脳細胞そのものが壊れていることを確認すべきであるという考え方がある。これが「器質死」である。先ほどのコンピュータの例を使うならば、コンピュータ本体が二つに割れているような状態である。では脳細胞が壊れていることを確認するのは可能なのだろうか。脳は多量に酸素を必要とする。酸素の供給がなくなれば脳細胞は死ぬ。そして脳の中に酸素を運ぶのは血液である。したがって、脳内の血流の有無を調べることによって脳細胞そのものが壊れているかどうかを確認することができる。かくして器質死の立場に立つ人々は脳内血流の有無を脳死判定基準に含むよう求めることになる。しかしこれは竹内基準を脳死判定基準と定めた脳死臨調の答申で拒否された。脳内血流の有無を調べるのは患者の負担になるという理由であった。
−脳死と臓器移植−
臓器移植法では、移植に供する場合のみ脳死を人の死と定めている(したがって、臓器提供の意志のない者が脳死と判定されても「死んでいない」ということに法律的にはなる)。ここからわかるように脳死を人の死とするもともとの動機の一つは臓器移植のための臓器確保である。もっともこれは日本だけではない。アメリカでは脳死を人の死とする際に、移植用の臓器入手をめぐる論争を終わらせることができるという議論がなされた。
しかしながら臓器移植が可能になっても、臓器の提供者はまだ少ない。一方、臓器の提供を待ち望む人々は多数存在する。慢性的に臓器が不足するという事態は避けられないだろう。そうなると、臓器を誰に移植するのかという選別の問題が必然的に起こってくる。現在、日本臓器移植ネットワークがその任に当たり、提供される臓器との親和性や臓器提供を待つ期間の長さ、移植の緊急度などによって移植を受ける患者の選定を行っている。だがアメリカでは「最も重症の人を優先するという原則をやめて、最大の生存時間が得られそうな患者に配分するという原則に変えた」(加藤尚武『現代倫理学入門』講談社学術文庫、p.40)という。これは倫理学的に見るならば、生存年数の最大を追求するという意味で功利主義的な考え方である。将来的には、社会に対する貢献度や自己管理能力(移植後も健康に注意して生活しなければならないから)などが移植を受ける人の優先順位の決定に際して考慮されるようになるかもしれない。
また臓器が不足しているのならば、その提供数を増やせばよいと考える人が出てくるのも当然ではある。事実、既にそのような議論が生命倫理学者によってなされている。例えば、H.T.エンゲルハートは大脳死の人はもちろん、植物状態の人や大脳が欠損した状態で生まれてくる無脳児からも臓器を摘出してよいと主張している。これはホモ・サピエンスという「ヒト」のうち、生存権を持つのは自己意識を持つ「人格(パーソン)」に限られるとする「パーソン論」の考え方に則ったものである。自己意識を持つには大脳が働いていなければならないと考えられるので、上記のような「ヒト」は人格から除外され、したがってそのような「ヒト」から臓器を摘出しても生存権の侵害(殺人)にはならないというのである。また臓器提供のためにクローン人間をつくってもよいのではないかという議論も当然出て来るだろう。
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[2]コソボ紛争関連書及びウェッブサイトの案内:エスニック・ナショナリズム再考
(土佐弘之:本学講師・東北大学法学部助教授 E-mail:tosa@sol.dti.ne.jp)
コソボだけを扱った日本語の単行本は、管見の限りではないようだ。英語のものでも数冊既に出ている程度だが、今回のコソボ危機を契機に、火事場泥棒的な「緊急出版もの」が、続出する気配。英語のものになるが、そのうち比較的良心的なものとして、下記の本を薦める。
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Noel Malcolm, Kosovo: A Short History. New York University Press, 1998.492p.エスニック・ナショナリズムの脱構築という観点から、エスニック・コンフリクトの分析を更に徹底化したものとして、もう一冊の本を薦める。
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David Campbell, National Deconstruction: Violence, Identity, and Justice in Bosnia. Minneapolis, University of Minnesota press, 1998#
Microsoft & NBC, Interactive Guide
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The Federation of American Scientists#
Kosova Press#ユーゴ連邦政府情報省
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NATO#千田
善のホームページ[3]ダイオキシンとは(川合真一郎:人間科学科教授)
史上最強といわれるダイオキシンが焼却場から排出され、周辺環境を汚染していることで大きな問題となっている。ダイオキシン問題は今に始まったことではない。
1962−1971年にベトナム戦争でオレンジ作戦という名のもとに米軍が大量に散布した枯葉剤(除草剤)の中に不純物として含まれていたダイオキシンがベトナム軍兵士、一般住民、米軍兵士に甚大な被害をもたらし、流産、死産、奇形児の誕生などの出産異常を、ベトナム帰還兵にも癌、皮膚疾患を生ぜしめたといわれている。また、1976年、イタリア北部のセベソにおいて化学工場の爆発事故により周辺にダイオキシンを高濃度に含む反応物が霧状に降り注ぎ、住民に皮膚疾患、流産、肝機能低下をもたらした。ダイオキシン類にはダイベンゾダイオキシンとダイベンゾフラン合わせて210の同属体があるが、最近ではPCBの中のコプラナーPCBもダイオキシンに含められている。ダイオキシン類がどのような過程で非意図的に生成されるか、われわれの身の回りの大気、土壌、水系における濃度分布、どのような経路で人体に入ってくるか、動物実験での毒性などに関して膨大な量の知見がすでに得られている。ダイオキシン類と一口に言っても同属体の種類によって毒性は大きく異なること、またラットとハムスターではダイオキシン類の中で最強の毒性を示す2,3,7,8−四塩化ダイオキシンの急性毒性に数千倍の違いがあることも明らかにされている。したがって、人間にとっての毒性がどれほどかを現時点で明確に示すことは困難である。ダイオキシンに関してマスコミの報道が先行しすぎているようなきらいもあるが、今、大切なことは国、自治体などの行政機関と大学やその他の研究機関の研究者が協力して、ヒトおよび野生生物へのダイオキシン類の毒性学的影響の把握と、焼却場などからの排出を極力低減する技術開発を推進することであろう。〈参考図書〉
長山淳哉:しのびよるダイオキシン汚染、講談社ブルーバックス
<岡田山を知ろう>
「本学キャンパスの設計者はメレル・ヴォーリズ(William Merrell Vories,1880-1964)であり、彼が本学音楽部卒業生(25回生)の一柳満喜子と結婚し太平洋戦争のさなかの昭和16年(1941)に日本に帰化したこともあわせて、本学とは少なからぬ縁のある人物です。女学院の校舎のデザインは、ヴォーリズ作品中でも屈指の名作と言われています。その美しさの恩恵を私たちは日々享受しているわけですが、彼についての研究は、まだまだ不十分であり、私たちもまた彼についての関心をいっそう持つべきでしょう。幸い、ひとりの熱心なヴォーリズ・ファンの方が、「ヴォーリズ建築案内」というホーム・ページを作成されています。試しにご覧あれ。

<研究室から>
耳を澄ませる(石黒晶:音楽学部助教授 E-mail:ishiguro@mail.kobe-c.ac.jp )
音楽にかかわる技術の変遷も、近年まことに目まぐるしい。最近驚いたのは、HDDレコーディングというものである。高音質の音楽録音再生が従来のレコーダを使わずとも家庭用パソコンで容易にでき、さらにさまざまな音響的加工さえ可能なのだ。従来の録音再生音楽はSPからCDにいたるまで、音盤に演奏が詰め込まれていた。私が作曲を志したころ、毎月レコードを買っては聴きまた楽譜を調べ、そのようにして西洋音楽の精華にわくわくしながら接したものだった。ところが最近の情報処理技術は、パソコンレヴェルで音楽をデータとして手軽に扱えるようにしてしまった。愛好家にとって音楽そのものとも感じられた音盤を必ずしも必要としない、CDなどを用いないインターネットによる音楽配信が可能となってきた(注
1)。聴覚を通して感性に働きかける音楽が、むきだしの物理情報として普通の聴き手の手元までやってくる時代になったのだ。ここで、音盤は単なるメディアに過ぎなかったことがいよいよ実感され、またディスプレイに映る音響波形は、音楽芸術も電子解析されると物理的変化の連続であったことを、あらためて思い知らせるのである。SP出現当時その問題点として、音質の粗末さとともに、弾き手(歌い手)と聴き手の音楽体験の共有が、再生音楽に欠けていることが指摘されたであろう。音盤出現のころ音楽家はあくまで演奏会実演の優位性を主張しただろうが、その後音盤メディアがむしろ音楽享受の主たる形式になり、今ではとうとうここまできてしまった。ここまで追求されてきたのは、空気振動の物理情報としての精確さと操作性であろうか。ならば希薄になってきたのは、なんだったろう。すべて音楽は、人間の筋肉・呼吸によって発音されてきた。奏者の息づかいは旋律につながり、筋肉的運動は律動に結びつく。また音楽は、さまざまな言語に支配される人声や、工匠の技と奏者の修練で磨かれた諸楽器によって演奏されてきた。歌声はことばによってリアリティが与えられ、楽器それぞれにはモノとしての存在感が濃くある。さらに民族はそれぞれが固有の音感をもち、それは微妙な音律の違いとなって民族のうたを彩っている。現代でも日本人と欧米人には、左右脳の音認知に大きな差異があるとまでいう(注
2)。このように音楽は、人間存在の基底に根ざし己が地域性から発する、多彩・多様な世界である。もちろん、風土や民族・文化、時代その他いろいろな要因が、そこにかかわるからである。しかし私たち日本人は、明治以来西洋音楽技法を学び、すでに西洋近代楽器による創作をも自然なこととしている。風土も人種も違う遠い世界であったのに。西洋近代文明が世界を席捲したように、西洋楽器も十九世紀にある普遍性を獲得したのかとも思う。それが近代合理主義の力技なら、その先に現代電子楽器の発展を見ることはたやすいだろう。しかし、電子音源にとりこまれつつある世界中の楽器を手にし、幾多の名演奏のノリを物理的に分析し、そしてコンピュータ上にいかなる音楽でも制作可能とはなっても、それで皆が豊かになるわけではない。少なくとも私の幸せはない。いったい音楽の喜びの実体とは何なのか。いま自分を最も喜ばせるのは、どんな音楽なのか。”曲書き”はいつも、自らの創作に答えを見つけるほかはない。若いころ、沖縄音楽を素材として作曲を始めた経験がある(注
3)。沖縄のどこに魅かれたのか、かの地の唄者(うたしゃ)と自分のうちなる音感に近いものを感じたのだった。そのとき私の中で、西洋音楽とも日本伝統音楽ともなかった共振が起きていたと思う。こうして書き始めた歌にハープで伴奏を加えた。ハープは古代ギリシャの神アポロンが作り奏する楽器である。異質な素材に不安をいだきながらも、平均律調弦(注4)に固定されない、撥弦楽器としてのハープに魅力を感じての選択だった。そして夢中の数ヶ月が過ぎた。この曲の初演は、自分の人生でも忘れ得ぬ体験となった。ステージからきこえてきた音楽は沖縄ともギリシャともいえない、その時「自分がいちばん聴きたい音楽」だった。昨年はまたユニークな編成で曲を書いた。オンド・マルトノ(注5)とチェンバロそして弦楽トリオの五重奏曲である。オンド・マルトノはさまざまな音色を合成しながらも、片手で単音のみを奏する電子楽器である。しかもステージには鍵盤のほかアンプ・スピーカを配する、ハイブリッドな旋律楽器ともいえる。そしてここに、私にとって特に西洋の薫り強いチェンバロが加わる。この編成でどんな音楽を書くのか。作曲委嘱から五年間、書きながら迷い続けたのは、編成から浮かんでくる楽案のやはりどうしても西洋的なことだった。こんな楽想を自分の曲で歌っていいものか。そんな最後の数週間、しかしここで作曲が楽しくなった。ようやく自分のうちに在る西洋の音感も、許していい気持ちになった。私なりの自然な音楽がそこに流れているなら…。民族・様式の問題、音感の問題、楽器の問題、演奏の問題、さらには発表の問題。曲を書くたびにいろいろなことを考える。現代はこれらが渾然となって、”曲書き”に一層の迷いを沸き起こす。しかし作曲の強い予感がうまれるのは、そんなさまざまな問題から少し離れて、書き手の感覚・意識が自在な状態になったときであろう。その瞬間何がきこえているのか。その時聴こえるおそらく素朴な、しかし強い手応えを感じる、楽案以前の何かに耳を傾けること。いつも耳を傾けようとし続けることが、”曲書き”の生き方であったこと。目まぐるしい時代になった今、そのことを改めて考えるのである。
注
1:「MP3」という音声圧縮技術によって実用段階に入った。(http://www.mp3.com/)<図書館のかたすみで>
No matter where you go, there you are -- except at the library!
Greetings fellow students at Kobe College! It has been almost 10 months since I came to Japan. Since some time has passed, people often ask me many questions regarding my thoughts about Japan. For example, I am asked how I am enjoying life in Japan; or, what kinds of food I like. But, my favorite question is this:
研究はどうですか. Why is this my favorite question? Because, I get to answer in the following way: ぼちぼちでんな.I am enjoying life in Japan and my life at Kobe College very much. And, my research really is ぼちぼち so I think everything is OK!As many of you may know already, I spend much time in the library(usually the
新館); it is one of my favorite places on campus. Again, you may wonder why. Well, the answer has to do with the title of this essay "No matter where you go there you are -- except for the library. "When I am in the library, I can pick up a book and imagine myself any place in the world; or, I can imagine myself as anyone in the world. How? Well, by picking up just any book off of the library shelf. It is such a good feeling to escape without going anywhere. Also, as you all are well aware, Kobe College is an all women's school . . . but, men can be found on campus! Are you surprised? Where can we find these men? In the library! The books are full of men (and women) from everywhere; we can learn about people -- how they act, what they eat, how they talk, anything -- by just picking up certain books in the library. The other day, while I was looking in the sociology (社会学) area of the library, I found many books on what people in different areas of Japan eat! It was really interesting. And then, when I was in the linguistics (言語学) area, I was able to find out that in different areas of Japan, the same food is called by different names! Now, you may think that this is not very interesting . . . but, trust me, reading these books can make you feel as if you live in a foreign country, even if you don't! Anyway, my point is merely this: the library is a really fun place and I love it in there! And, as many of you may already know, I really like to have fun . . .that is the REAL reason that I came to Japan (but don't tell anyone, as many people think that I came here to study!).If you see me in the library, I am probably trying to find information about how Japanese men talk, think, and just generally go about life as that is my research area; but, probably I am in the library having fun, too, so, please do not hesitate (
遠慮しないで) to talk to me!Good luck at your own studies!
楽しみながら勉強しましょう! 目次へ戻る<私と読書>
[1]村上春樹のこと(大橋綾:大学院文学研究科M2)
現在、村上春樹という作家に興味を持っており、しばらく彼に伴走していきたいと考えているが、本当のことを言うと彼の小説やそのスタイルを好きかどうかよく分からない。好悪ははっきりしている方なのだが、村上春樹に関しては、「好き!」と言い切ることに留保を付けたい気持ちでいる。そのため研究対象である彼の小説をいつも喧伝できない。
もちろん、私が地道な宣伝活動をしなくても新刊『スプートニクの恋人』は順調に売れているし、村上春樹は現在でも善きにつけ悪しきにつけ有名人である。
[2]宝捜しのススメ(江口さやか:人間科学科2年生 E-mail:Caq43000@pop17.odn.ne.jp)
NHKで少し前にシリーズで放送されていた、「海―知られざる世界」という番組をご存知でしょうか。このシリーズは、実に不思議な容貌を持つ深海魚、深海生物、そして、新しい資源として注目を集めているメタンハイドレートの話など、未知の部分をたくさん抱えている「海」を様々な角度からとらえた番組でした。私達のまわりには当たり前のように海が存在し、私達の起源は海にあるというのに、人はまだその広大な海についてほとんど知らないのです。私はこの番組を見て、神秘的な海に心を奪われました。
そして、最近になって図書館新館で見つけたのがそのシリーズの本でした。新着図書を何気なく見ていたら「海―知られざる世界 2」というのが目に入ってきたのです。このシリーズの本が出ている事を知らなかった私は、第一巻も探し出して、宝物を見つけた探検家のようにうきうきしながら、即座に借りて帰ってしまいました。
帰って開いてみると、案の定、素晴らしい本でした。テレビでやっていた以上の詳しい内容がわかりやすく書かれているのに加え、とにかく写真が多くて奇麗なのです。このシリーズは全四巻ですが、図書館には5月末の段階で三巻までが入っています。置いてある場所は、4階の大型本コーナーですが、私が見た時には誰も借りている人がいなかったので、これは是非この機会に多くの方に知っていただきたいと思い、紹介させていただきました。「精密に調べられた海底は全海洋の20%にも満たない」不思議だらけの海について、楽しみながら知識を深めてみてはどうでしょうか。また、大型本コーナーには、その他のNHKスペシャルの本や、その他いろいろな分野の面白そうな本がたくさんあるので、「海」には興味がないという方でも、一度訪ねてみてください。何か新しい発見があるかもしれません。
また、これは余談ですが、図書館本館にまだ行った事がないという方は是非行ってみてください。新館の良さとはまた違う、昔ながらの落ち着いた雰囲気を感じ取る事ができる、読書をするにも、勉強をするにも、昼寝をするにも(?)もってこいの、とても静かな場所です。去年ここに通いつづけた私の、特にオススメの季節は春です。草花の美しい中庭を望みつつ、大きく開かれたベランダのドアから流れてくる風に、なんとも言えない安らぎを感じる事ができますよ。
<Veritas rerum = ことのありよう>(浜下昌宏:総合文化学科教授 E-mail:m-hama@mail.kobe-c.ac.jp)
今は書店まで行かずともインターネット上で新刊書も古書も検索・注文できるご時勢なので、図書館も、いずれは書籍も建物もいらない電子図書館とか情報センターとかに改組されかねない。図書館の将来も模索の時期であるが、大学図書館のあるべき方向については、なによりも大学や高等教育の行方という、こちらも深刻な問題とからめて考える必要があろう。実学志向もけっこう、しかし、それなら専門学校とどうちがいがあるのか。現代のビジネス優先の風潮に応えることも大事、しかし、それなら最初から現場に入って体で実務を身につけた方が効果的ではないのか。せいぜい大学は、その卒業資格によって賃金体系の中で有利に昇給するための効能しかないのではないのか。卒業資格もほしい、実用的技術も身につけたい、というのは、虫のよすぎる話だろうし、場合によっては前者は売買する商品のように扱ってよいことになるのであろうか。--そんな思いをめぐらすときには、いつも「古典」についてあらためて考える。つまり、私の念頭に浮かぶのは、リベラル・アーツを標榜する本学のような場合、蓄積された学問的歴史の継承者としての大学、古典研究・歴史研究の場としての大学という視点であり、図書館について言うと、過去の歴史的遺産・傑作・名著・古典の所蔵所としての図書館、というイメージである。エンターテインメントとしての小説ではなく、ドフトエフスキーの長編とか夏目漱石の思想小説を読めるのは学生時代をおいてあるまい。時間的にも、精神的余裕からでも、まさにスコレー(ギリシャ語で「暇・余裕」の意で「学校」=schoolの原義)ゆえの読書である。そこで読むべきは「古典」であると思うのだが、はたして今日の古典教育はどのような遇され方をされているか。グラマースクールの伝統のあったイギリスではあるが、サッチャー政権下の教育改革で古典教育の見直しがなされギリシャ語ラテン語の比重は大幅に下がった。今日出会う、オックスブリッジの卒業生がラテン語を読めると思って接したらおおまちがいである。アメリカでは英訳ですべてすませようとする軽薄な風潮があるように思えてならない。私のかつての恩師は、プラトンやアリストテレスのテキストを使った演習にロエブ(英語と対訳の古典語双書。本学図書館にも所蔵)のテキストを持ち込むことさえ許さなかったが、そんな厳しさは今日ではとうに異様な例外であろう。とまれ、あらためて古典の意味を、どのように論証すべきか私は迷っている。そこで手がかりを求めて、アランをひもとく。『アラン教育随筆』(橋田和道訳、論創社、1999)の第77章に「古典、思考を整えるもの」という表題の一節がある。切口上的に冒頭からこうある。「ギリシア語とラテン語に日頃なじんでいない者は、私から見れば、弱い、と言うか、もしこの言葉がいつものように悪い意味にとられることがなければ、ばかな、とも言いたい精神の持ち主である。」「ばか」とは、むろん訳者の選択によるが、強烈にひびく。原書でしらべると、<imbecile>である。「馬(うま)・鹿(しか)」といった動物のように話し行動し、人間的知性の欠けたさまを指す。アランが「ばか」というわけは、「外からの原因によっていびつにされるがままになる」からであり「人の意を迎えるために自分の考えを変え」、「意見を流行のコートのように着け」、「いやいやながら好きになろう」とし、「考えることをせず信じる」者への批判である。もっとも、アランも古典の知識無しに、また古典に反対しながら、優れた頭脳を持ち人事百般において調和のとれた人物が存在することを認める。しかし、彼は言う、「もし彼らがさらに古代の作家を糧とするなら、もっと伸びるだろうしもっと多くのことができるだろう」と。古典教育を尊重する態度は近代への懐疑にも由来する。「近代の発想は狂気じみて」おり、「蟻塚に踏み込まれたあとの蟻の動き」のようである。それなら古典はシェイクスピアやダンテを読む場合とどうちがうのか。むろんアランはイギリスからロシアにわたる近代西洋の文学的財産を否定しない。ちがいは、「毎日われわれの精神を覆い、帽子の流行よりも早く変わる流行に従って毎朝われわれにたわごとを言わせる、この生まれながらにして死んでいる饒舌」にある。そうした近代語の饒舌が今日、「やむを得ないとは言いながら、外国人の口まねのいくつかを、あるいはすべてをひょっとこ面して学んだ者によって操られている」ことに問題があるとアランは考える。たしかに、情報氾濫のわれわれの時代にあって、真に「情報」の名に値するのは古典に照らしても遜色ない知識なのであろう。そうした知識を身につけるためにこそ、古典教育によって判断力を養わなければならず、雑多なデータベースを自宅にいてもPCによって入手できるのであれば、古典的書物を所蔵し古典の存在理由を教えるのは図書館のひとつの役割であろう。
<Veritas No.7で紹介された図書のリスト>
脳死と臓器移植をめぐって
1.加藤尚武. 1997.『現代倫理学入門』講談社学術文庫.--- 発注中
コソボ紛争関連書及びウェッブサイトの案内
1.Malcolm,Noel. Kosovo; a Short History, New York: New York University Press, 1998.--- 発注中
2.Campbell,David. National Deconstruction: Violence, Identity and Justice in Bosnia, Minneapolis: University of Minnesota Press, 1998.--- 発注中
3.千田善. 1999.『ユーゴ紛争はなぜ長期化したか』勁草書房 .--- 発注中
ダイオキシンとは
1.長山淳哉. 1998.『しのびよるダイオキシン汚染』講談社ブルーバックス. --- 新館4F/628/NA13
2.宮田秀明. 1999.『ダイオキシン』岩波新書.--- 新館3F/080/IW1F/V.605
耳を澄ませる
1.小泉文夫. 1978.『音楽の根源にあるもの』青土社. --- 新館2F/780.955/KO1B
2.藍川由美. 1999.『アジアの唄声』カメラータ・トウキョウ.(CD)--- 新館2F/教員著作物コーナー
3.Wood,Alexander. 1976.『音楽の物理学』(石井信生訳)音楽之友社.--- 新館2F/781.1/WO1
村上春樹のこと
1.村上春樹. 1999.『スプートニクの恋人』講談社.--- 発注中
宝捜しのススメ
1.NHK「海」プロジェクト. 1998.『海知られざる世界』第1巻−第4巻 日本放送出版協会.--- 新館4F/大型本コーナー/557/NI7/V.1-4
Veritas rerum
1.アラン. 1999.『アラン教育随筆』(橋田和道訳)論創社.--- 発注中
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<編集後記>
私達がはじめて電子図書館(本の無い図書館)と言う言葉を耳にしたのは、15年ほど前だったと思います。その頃はイメージを描くことすら出来ませんでした。しかしここ数年の間に起こった変化は加速度的にその勢いを増し、よりにもよってその過渡的な位置にある図書館で仕事をする私達は、運の良さを嘆いている?前に、なんとか状況を把握することに精一杯努力しなければ…というのが実感です。
私達はすでにVeritasという名の図書館だよりを6号まで発行しておりましたが、これは、時事評論、新刊紹介、書評など豊かな内容を持つ、より魅力あるVeritasをいつの日か発行するためのステップと考えておりました。
今ここに、その図書館報 Veritas をオンライン上で発行することができたことは、私達にとって画期的ともいえる出来事です。ややもすれば時代遅れになりがちな図書館員に、Veritas 発行の原動力をお与えくださいました浜下館長と、原稿をお寄せ下さいました先生方、学生の方々に感謝いたします。(Veritas 編集部)
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