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Veritas No.29(2005.7.15)



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         目次       (敬称略)


<知る人ぞ知る、見る人ぞ見る――夏休みを前に読書のススメ――>
  浜下 昌宏(図書館長)

<特集 夏休みに読んでほしい、読みたいこの一冊>
  上西 妙子(総合文化学科)
  石黒 晶 (音楽学科)
  寺嶋 正明(環境・バイオサイエンス学科)

<研究室から>
  松田 高志
  Kerstan B. Cohen

<ベンジャミン・ディズレイリ・コレクション (2)>
  松村 昌家

<Veritasバックナンバー>


無断転載を禁ず


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<知る人ぞ知る、見る人ぞ見る――夏休みを前に読書のススメ――>

 浜下 昌宏
 図書館長 総合文化学科教授 

 夏休みです、さあ読書を! と、督促するのは昔の話でしょうか。たしかに本以外にも有効な知識源はあります。柳田国男は「学問のみが世を済(すく)うを得べし」(『青年と学問』岩波文庫、p.13)と言いながら、その学問について、「人生も学問」「旅行は学問のうち」と言い切ります。森鴎外のベルリン留学時にドイツ駐在公使であった青木周蔵は鴎外に対して助言しました。「学問とは書を読むのみをいふにあらず」(『独逸日記』明治17年10月13日)。ヨーロッパの人たちの思想、生活、礼儀、等々の観察もまた、留学生の重要な学習であることを言いたかったようです。

 なまじ知識をふんだんに身に着けると、アウグスティヌス『告白』で語られるように、「知者と思われたいという欲求」(山田晶訳、中央公論社、世界の名著14、p.249)をむきだしにすることになりかねません。「いわゆる高尚な学問の長靴をはいていばっている連中」(p.236)にはむろんなりたくありませんが、むしろ今日ではお目にかかりたいくらいです。

 今日ではある種の学問は中途半端になっているようにみえます。ケーベルによる日本人学生・学者への批判を読み直してみましょう。「虚栄心と、自己認識の欠乏と、および批評的能力の更にそれ以上に欠如せること。これらの悪性の精神的ならびに道義的欠点は、西洋の学術や芸術の杯から少しばかり啜ったような日本人においてとくに目立ってまた滑稽な風に現れる・・・」(『ケーベル博士随筆集』久保勉訳編、岩波文庫、p.87)、と。

 もっとも、近年の学力低下は、なにも小学生・中学生・高校生・大学生のみならず、本屋で山積みされている安直なマニュアル本(”こう考えれば楽に生きられる”、”心がホッとする考え方”、等々)などを見ると、学力低下は国民の大多数に及んでいるように思われます。やはり、しっかり本を読んでください、と言いたくなります。

 問題は、読書量の多寡だけではなさそうです。「いくら本を読んでも志が高くないか、選択が悪ければ、ただ疲れるばかり」(柳田、上掲書、p.51)というのも真理です。良い本を読むこと、そして「世間という大きな書物」(デカルト『方法序説』第1部)を読むこと。このふたつを並行して夏休みを過ごしたいものです。その目指すものは、「内なるまなざし」(アウグスティヌス、上掲書、p.233)、「精神の視力」(同)でしょう。「(徳の光、美の光の)この美しさは肉眼では見られず、ただ精神の内奥から見られるもの」(同、p.217)なのに、日々あわただしい私たちには、「光は内にあったのに私は外にいた」(同、p.232)というありさまなのですから。

 情報化社会という、わけのわからぬ、瞞着と幻想と詐欺まがいの言説が横行する時代。真実の内容ではなく、いかに雄弁に話すか、どのような仕方で話すか、が優先される時代。本学に関しても広報不足を反省して”知る人ぞ知る”と居直りたくなります。しかし、幻想をばらまいても”見る人ぞ見る”でしょう。「内なるまなざし」を持った人は、幻想の策略の愚かしさを見破ります。インターネット亡者に目利きなし、読書家こそ目を養う、とあえて申しましょう。というわけで、夏休みには存分に良書を読みましょう。世間という書物も。

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<特集 夏休みに読んでほしい、読みたいこの一冊>

上西 妙子
 総合文化学科教授

  「感じること」と「知ること」は、どうつながるのでしょう。両者を分ける考え方もあります。しかし以下の二冊は、その疑問にあまりこだわらないようにと言ってくれます。

@レイチェル・カーソン『センス・オブ・ワンダー The Sense of Wonder』新潮社(1965)1996年

 『沈黙の春』(1962年)で、環境汚染と破壊の実態を世にさきがけて告発した海洋生物学者レイチェル・カーソン(1907―64)による最後の著書。写真が添えられた美しい小さな本です。本学の留学生派遣先の大学が、カーソンの母校であると聞きました。その縁を強引に捉え、留学生のみならず、多数の学生が競って卒論研究のテーマとして、「センス・オブ・ワンダー」を選んで欲しいと私は思っています。「センス・オブ・ワンダー」は、21世紀において「考える」ときの姿勢を示唆しています。

 「センス・オブ・ワンダー」とは、美しいもの、神秘的なもの、不思議なもの、畏敬すべきもの、それらに目を見はる「感性」を意味します。この感性を子供に持ってもらいたいと願う著者は、幼いロジャー(姪の息子)と森を歩き、また海や月を眺め、「見ること、嗅ぐこと、聞くこと、触れること」の感動をつづります。そしてロジャーは、「ものの名」を覚えることにも大きな喜びを見せます。

 雨の日の森、つややかに厚みをましたコケの弾力、また、ツンとした煙の匂い、岩礁のブイの音、夜の声。彼らのようにこれらを楽しみ、そしてそれによって世界を驚嘆しつつ発見するならば、人は、そこに「驚嘆する自分」を感じるという、まるで外部から与えられた「経験」のように自らの「感情」を味わうことでしょう。

 その感情は人の心において、思いやり、憐れみ、愛情などのさまざまな感情につながっていくことでしょう。カーソンは、「知る」ことよりも「感じる」ことの大切さ、その深さを強調してはいます。しかし私たちは、「センス・オブ・ワンダー」の持ち主の謙虚な寛大さをこそ、「知」とするのではないでしょうか。

 さて次は、別種ですが、同じように驚嘆する心が求められる書です。

Aアンドレ・コント=スポンヴィル『哲学はこんなふうに』紀伊国屋書店(2000)2002年

 「自分の考えを持つ人間になりたい」と多くの新入生は言います。しかし、場あたりの思いつきにすぎないことをいくら繰り返しても、それは考えることにはなっていません。著者は、数年前からフランスでブームの「哲学カフェ」(カフェの客同士が、先生格を中心に議論を戦わせるカフェ)のリーダーです。ですから、客の反論に答えるかのように、「…という意見もあるかもわからないが」や「こういって良ければ」とか、「…と想像してみて欲しい」というように、「書くのではなく語りつつ」読者を議論に導いていきます。

 「哲学するとは自分で考えることだ。だが、それをうまくやれるようになるには、まずほかの人たちの、とりわけ過去の偉大な哲学者たちの思想に頼らざるをえない」、と本書の序文は言います。「自分で考えてみた」頼もしい先人たちの言葉に耳を傾けることは、私たちにとっては、「人間であるということ」を驚嘆しつつ発見することにつながります。

 論じられる主題は、「道徳」「愛」「死」「自由」「芸術」「時間」「叡智」など。頁を繰れば、集積された知の多数の引用。そして、巻末の大量の文献目録。しかしそれでいて、切実にそこに感じられるのは、「知」の寛大な暖かさです。私たちだって多分、立派な先人たちと同じように、「人生」について悩んではいるのですから。次の言葉は、良く学ぶようにとの励ましなのですが、その意味を知ることも学びである厳しい教訓となっています。「叡智とは、最大限の明晰さのうちで捉えられた最大限の幸福である」。

 読んで下さい。「よくまあ、考え続けるもんだな!」と思いつつ、「今」という時の意味深さに満たされることでしょう。そして、美しいもの、神秘的なもの、不思議なもの、畏敬すべきもの、それらへの「感覚」を持つ自身に取りつかれているという感じがすることでしょう。


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石黒 晶 音楽学科教授 

谷川俊太郎著『シャガールと木の葉』(2005 集英社)
谷川俊太郎著『夜のミッキー・マウス』(2003 新潮社)
谷川俊太郎著『minimal』(2002 思潮社)

 詩人谷川俊太郎さんが新詩集を毎年のように発表している。 どの詩もとても音楽的だ。 詩句の間から風通しのよい調べが流れてくる。 様々なスタイルで、時代と人生の有り様をうたっている。 私たちの愛を語り、私たちの生を憂い、そしていつか迎える死を想う。

 最近谷川氏のお許しを得て、氏の作品に作曲する試みを始めた。 でもここに挙げたのは私にとって、いまは読む楽しみだけのための数冊。


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寺嶋 正明 環境・バイオサイエンス学科教授 

 <自分にあったペーパーバックを探して、読みふけってみましょう。>

 宿題とレポートから開放される夏休み。リラックスした気分でペーパーバックに挑戦してみましょう。コツをつかめば、英語の読解力を飛躍的にのばすことができる、しかも楽しみながら。私の体験的なコツを紹介しましょう。要点は、そのときの自分の気分、趣味、英語力に合致した本を選べばいいだけです。自分に合致した本とは…これは日本語の小説を読むときのことを考えれば、よくわかります。たとえば夏目漱石がいかに文豪でも、読んでいるときに何の情景も浮かばず、文字だけを追う状態になれば、読んでも苦痛になるだけ。面白いと思いながら小説を読んでいるときには、自然にその状況が目に浮かび、主人公がイメージされ、頭の中で動き出すものです。英語の小説でも同じです。では、そのような本を探すにはどうしたらいいでしょう。書店で、手にとって、活字の大きさ、行間の大きさをみます。自分の英語力に応じて、これなら読めそうとか、少しつらいかなというのが感覚的に把握できます。この感覚は結構当ります。本を買ったら、最初の30ページはとにかく読む。少し我慢して、がんばってください。多くの場合、この間に小説の舞台設定、主人公の性格付がなされます。ここまで読んで、何のイメージも浮かばなければ、その本を読むのをやめましょう。自分の状態(気分、英語力、趣味)にあっていないか、作者が下手かのどちらか、です。そのような本は再び読んでみようかなと思うようになるまで、しばらく本棚の飾りにしておけばいいでしょう。(私の本棚にも出番を待つ本が何冊かあります。)

 それでは参考のために、本の紹介を。ただし、私の気分にあったものに過ぎません。自分に合ったものは自分で探すしかありません。

●Sidney Sheldonの“If Tomorrow Comes”, “Windmills of the Gods”など…「超訳」とかで有名ですが、確かに読みやすく面白いです。

●John Grishamの“The Pelican Brief”, “The Firm”など…法律事務所に関連したお話を得意にしている作者です。

●Robin Cookの“Mutation”, “Outbreak”など…この作者は医学もののサスペンスを多く手がけています。

●Michel Crichtonの“Jurrasic Park”, “Lost world”, “Timeline”など…ジュラシックパークで有名な作者です。色々なジャンルの小説を書いていて、どれも非常に面白く読めます。

 今は「ダ・ヴィンチ・コード」で一躍有名になったDan Brownの“Angels and Demons”を電車の中で読みふけっています。気づいた人もいるかも知れませんが、これらの中には映画になったものが多く、楽しく読めます。そのかわり、私には原作を読んだ後に映画を見てガッカリした思い出が多いです。ただ、ジュラシックパークでベロキラプトルに追われて子供達が調理室に逃げ込むシーンは想像したとおりだったので、映画を見て非常にうれしい気持ちになりました。読み始めて、頭の中でイメージが動き始めれば、わからない単語があっても、いちいち辞書を引くのが面倒くさくなり、わからないまま読み進むことができるようになるでしょう。どんどん読んで、わからない単語は前後のイメージから類推します。また、一度イメージが浮かんでしまえば、しばらく読むのを中断していても、再び読み始めればすぐに以前のイメージが蘇って、続きを楽しむことができます。短くて、やさしい小説でも、一冊を読み通すことができれば、大きな自信になるし、英語力も知らずにアップしていることでしょう。講義科目の勉強から開放される夏休み、自分にあったペーバーバックを探してみましょう。


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<研究室から>

 松田 高志
 総合文化学科教授 

 <研究室から>というコーナーですが、「私の研究室物語」ということで書いてみたいと思います。本学に勤め始めた頃、まだD館がなく、新入り教員は、相部屋でした。当時、LAIIの2階は、沢山の部屋に仕切られていて、その一室の磯部助教授の研究室に入れてもらいました。何も知らない新米の者に、少し先輩の磯部先生は女学院の「過ごし方」について手取り足取り教えて下さって、まことに有難いことでした。

 2年目は、ゼミを持つことになり、岡本学長の研究室の方に移りました。岡本先生は、ほとんど学長室を使われるので、ほぼ専用の部屋になりました。図書館本館を入ってすぐの中庭側の部屋(今は入学センター事務室)で、とても便利で、中庭の景色も楽しむことが出来、その上5人掛け位の長いソファーがあって、よくそこで気持ちよく昼寝等して、大変気に入っていました。

 3年目は、ゼミのメンバーも増え、一人部屋に移りました。新しい研究室は、今は阪神大震災で全壊して無いのですが、JD館のあたりにあった清思庵という古い洋館の2階の広い和室で、美しい庭が見える窓側に応接セットが置かれていて、なんとも言えず贅沢な気分でした。冬は、或る先生にもらった電気ゴタツにあたりながらゼミをやり、「僻地教育」みたいだと皆で言ったものでした。

 4年目から2年間ドイツに留学することが出来、ドイツから帰ってからは、完成間もないD館の3階北側の研究室に入りました。そこは、ドイツ時代の屋根裏部屋を思い出させてくれて、妙に懐かしく、落ち着いた気持ちになりました。その後10年ほどして日の当たる南側の研究室に移り、しばらくしてそこで震災に遭いました。その頃には大分本も増えていたので、地震で部屋は高さ(深さ?)1メートル位の本の海になってしまいました。それを元に戻すのにいささか苦労しましたが、それも、今は懐かしい思い出です。

 その後、復興事業の一つとして建てられたJD館の研究室に、幸いにも、「古参」ということで移らせてもらいました。4階の南側の日当たりのいい、広さも眺めも申し分のない部屋です。これ迄居たどの研究室にもそれぞれかけがえのない思い出がありますが、双六で言えば「上がり」というのでしょうか、この「最上」の研究室を今しばらく楽しませてもらえるのを大変有難いと思っているところです。

 

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 Kerstan B. Cohen 本学非常勤講師 

<A Few Thoughts on the Virtues of Doing Radio and Not Being Heard>

“I believe that the subject of how the media are controlled, structured, and subsidized should be at the center of democratic debate. Instead, this subject is nowhere to be found.”
--Robert McChesney, in the intro to his book, Rich Media, Poor Democracy: Communication Politics in Dubious Times, U of Illinois P, 2000.

I'll start off by saying that I have no idea why I was asked to contribute to a Kobe College publication−on the subject of my research interests or teaching methods−when I no longer work at the school full-time, nor have been encouraged to do so. I can only suspect that the idea is to have a retrospective look at the shadow of an ex-faculty member who has now moved on; and this quasi-nostalgic glimpse toward the past might yield a spectral projection into the future... of what I might have taught were I to have continued at this institution.

But these qualms correspond nicely to the overall theme of this very short essay, namely the virtues of making public statements−whether they be in the form of a community radio show, an Internet homepage, or a small article in a privately distributed newsletter--that very few people, if anyone at all, may read or heed. And I'll conclude, as the title suggests, that yes, indeed, there is virtue in the production of such texts, not necessarily attributable to any meaning inherent in the texts themselves, but to the process of making them, of getting involved in the information process itself. Such participation, I maintain, is an act of constructive subversion that undermines the dichotomy of media as produced by pros and read/consumed by the rest of us.

Specifically, my interests lie in the challenge of “democratizing” media production. As Robert McChesney suggests in the pithy epigraph above, there seems to be a general complacency about media agency and control. And such complacency, I would argue, manifests itself in the all-too-common objectification of “the media.” They [the media, that is] misrepresent truth, they feed “us” so-called false information, they skew reality, they say anything in order to make a profit... money, that is, off “us.” Well, who are “we”? Who, exactly, comprises this elusive audience that is so battered by “them,” the media?

One effective way to get the public involved in the crucial--and crucially neglected--debate that McChesney describes, is to get the public involved in the media production process. This is why I've taken my monthly radio show−produced for Kobe-based 77.8 FM YY−and have tried various means of making it more community-based. Specifically, I attempt to become an “invisible hand” as DJ/Producer and have the show focus on people in the community: their voices, their music or musical selections, and, increasingly, their own sound bytes that they themselves record. Perhaps the most memorable attempt at this, for me, was the January 2005 show which was made by the students in my Community Radio Production class at Kobe College. The show commemorated the 10th anniversary of the Great Hanshin Awaji Quake and the students looked into relief-related volunteer groups in the Kobe area, while folding in the music from a locally produced, fund-raising CD called Kaze Ga Haranda Uta (produced by a Kitano-ku based NGO that started as a quake-relief effort). The show was rough, to say the least, as students attempted recordings, interviews, intros and outros, chat... with little experience, in a language not their own, and using non-professional equipment (MD players and cheap microphones available in the KC English Department). But the show was a great success, from my point of view, as it enabled all 40 students to participate in making a “real show” and instilled in each one an intuitive understanding that the “audience” needn't be passive; that the “airwaves” are−or at least SHOULD BE−public domain.

FM YY broadcasts from a 10 watt tower, and the terrestrial signal does not reach beyond Nagata-ku, Kobe. Admittedly, a Kobe-born employee of Miscrosoft Corporation in Seattle took a liking to the station and worked out sponsorship of free Internet, Livestream broadcasting... so that the “audience” is potentially global. Realistically, however, the January 2005 show reached fewer than 100 listeners (including the members of the class that made it).

Dennis McQuail, the much-quoted media theorist (who, in other words, has a large “audience” for his work), has pointed out that “the term audience has an abstract and debatable character...” (77). Arguably, the January 2005 FM YY show produced by Kobe College students had no “audience” whatsoever, in the commonly understood sense. Adapting McQuail's logic, however, the class had itself as “audience.” Making a radio show for oneself, however, is different from talking to oneself; radio production involves a process of mediation that highlights the power of the medium carrying the “text” in question.

The strength of that student show, then, was precisely in its minuscule “audience”; it became, by necessity, a self-reflective act that, by definition, personalized the medium in question and, I would hope, invested those students with a desire to contribute further to that medium at large (one student, since then, has informed me that she landed a job in professional radio for Hiroshima City).

But, of course, a critical reader might simply write off all this optimism as insincere, syllogistic argumentation, e.g. the January 2005 FM YY show had no audience; having no audience is a virtue in a way; the show, therefore, was virtuous! That reader might add that we should call a “dudd” a “dudd,” and admit that a radio show with essentially no listeners is a failure.

Very possibly so, according to return on capital... but freedom to experiment, to yield “air space” to amateurs, according to me, is anything but failure.

Sources:
McChesney, Robert. Rich Media, Poor Democracy: Communication Politics in Dubious Times. Chicago: U of I P, 1999, 7.
McQuail, D. Audience Analysis. Thousand Oaks: Sage, 1997.

 

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<ベンジャミン・ディズレイリ・コレクション (2) Benjamin Disraeli, Earl of Beaconsfield. A Biography 『ビーコンズフィールド伯ベンジャミン・ディズレイリ伝』 の謎解き >

 松村 昌家 大手前大学大学院教授 

 神戸女学院大学図書館蔵 B.ディズレイリ・コレクションには、購入時の1979年までに刊行されたディズレイリ関係図書が網羅されていて、これまた彼の著作品同様壮観である。ディズレイリの伝記として最も浩瀚な W.F.マニペニー、G.E.バックル著『ベンジャミン・ディズレイリ伝』(全6巻、1910-1920)や、一巻本の代表的な評伝というべきロバート・ブレイクの『ディズレイリ』(1967)をはじめとして、25種の文献がそろっているのである。標記タイトルの本も、そのなかの一冊である。
 多くのなかから特にこの一冊をまっ先に取り上げたのは、ほかでもない。いくつかの面で、好奇心を引きつけるものがあるからである。
 まず著者名も発行年もついていないのが気になる。西洋の刊行物には、発行年がついていない(n.d.)のは珍しくないから、その点に関しては取りたてて問題にするまでもないが、ディズレイリ伝としての内容が内容だけに、著者に関しては、無関心ではいられないのである。
 背表紙標題の下に、「非友好的批評家著」(by An Unfriendly Critic)というなぞめいた筆名が小さく記されており、タイトル・ページの標題の下には、鉛筆による"BEETON(S.O.)"という書き込みがある。本書の出版元がロンドンのベッドフォード街39番地に社を構えていたS.O.ビートンであったから、おそらく本コレクションの元の所有者は、ビートンをその著者だと判断していたのであろう。
 だとすると、「非友好的批評家」という覆面の著者は、すなわち S.O.ビートンになるわけだが、ビートンの仕事の領域からみて、これは合点がいかない。また彼がディズレイリに対して、「非友好的批評家」たるべき理由も見当たらない。
 本著に関して、もう一つ変わっていると思えるのは、その内容の構成だ。第1章が「国会での処女演説」(The Maiden Speech)、第2章が「若き日のディズレイリ氏」そして、「『ヴィヴィアン・グレイ』」、「ディズレイリ氏の初選挙戦」、「ウィカムにおける第2回目選挙戦」とつづき、最後は第22章「反逆者ピール」で終わっている。一見して、一般的な伝記、ないしは評伝の進め方と異なる。そして内容からみて、この伝記が、ディズレイリの生前に書かれたことも、明らかである。この点に関しては、「序文」の冒頭に、「本著作の大部分は、ディズレイリ氏が、ビーコンズフィールド伯爵の爵位を授かる〔1876〕以前に書かれ、その一部分はすでに出版されていた」と書かれていることからみても、疑う余地がない。
 では、問題の『ビーコンズフィールド伯ベンジャミン・ディズレイリ伝』の著者は、結局誰なのか。H.モンゴメリ・ハイド著『ビートン夫妻』(1898)によって判明したところによると、それはなんと、アイルランド出身のジャーナリスト、政治家として大活躍をするようになる、トマス・パワー・オコーナー(通称Tay Pay, 1848-1929)だったのである。
 オコーナーは19歳で、ダブリンでジャーナリズム活動をはじめたが、1870年22歳のときに職を求めてロンドンに出てきてからの数年間は、貧困のどん底にあった。彼がベッドフォード街にS.O.ビートンを訪れたのは、そのような頃であった。原稿閲読の仕事を求めての訪問であったが、ビートンからは思いもかけなかったアイデアが提示されたのである。国会を舞台にして展開された「名場面集」をつくろうという提案であった。
 新聞等に、そのときそのときの出来事が単発的に報道されることはあるが、それらを集大成したものは、いまだかつて出版されたことがなかった。オコーナーは、この新企画についての検討を委嘱されたのである。
 それからオコーナーの大英博物館の閲覧室通いが始まる。そこで彼がまっ先に目をつけたのがディズレイリの下院における「処女演説」だったのである。型破りのドラマティックな、そして彼にとっては、晴れの桧舞台とはおよそかけ離れた、惨憺たる結果に終わった演説であった。
 オコーナーは、1837年12月7日に行われたこの演説についてはもちろんのこと、その前後におけるディズレイリ関係のあらゆる報道を片っぱしから読みあさった。読めば読むほどに彼は、この演説ばかりでなく、ディズレイリという人物そのものに、興味がわき、知れば知るほどに、新たな喜びと驚きと興奮を覚えて、仕事にのめりこんでいった。
 彼が渉猟したものは、新聞だけではない。40年間にもわたる『ハンサード』(イギリス国会議事録)すべてに目を通したというのだが、それがどれほどハードな仕事であったかは『ハンサード』1年分が、通常5巻ないし6巻の大部の書籍から成るという事実からも想像することができよう。
 まとまった形のものとしては、おそらく最初のディズレイリ伝――Benjamin Disraeli, Earl of Beaconsfield. A Biography は、このようにして、駆け出しの頃のオコーナーの心血を注いだ探求の結果として、1877年にS.O.ビートン社から出版されたのである。(つづく)




W.F.マニペニー、G.E.バックル著『ベンジャミン・ディズレイリ伝』

 

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